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古事記の編纂者とは?太安万侶と稗田阿礼の果たした役割を解説

古事記は、和銅5年(712年)に完成した日本最古の歴史書ですが、この壮大な書物はどのようにして作られたのでしょうか?
その制作には、驚くべき記憶力を持つ
稗田阿礼(ひえだのあれ)と、文章の名手である太安万侶(おおのやすまろ)という、二人の優れた才能が不可欠でした。
天武天皇の命により始まったこの歴史的な編纂事業は、一度は中断を余儀なくされながらも、元明天皇の時代に見事な完成を迎えます。神々の時代から天皇家の歴史まで、日本の伝統を後世に伝えようとした彼らの情熱と努力は、1300年以上を経た今でも、
古事記という不朽の名作の中に息づいているのです。

ここでは、この偉大な歴史書を作り上げた人々の物語に迫っていきましょう。

 

目次

古事記の編纂者・太安万侶とは?生涯と業績を紹介

古事記の編纂者として知られる太安万侶は、和銅5年(712年)に日本最古の歴史書を完成させた人物です。稗田阿礼が暗誦していた内容を文字として記録し、漢字を用いながらも日本語の特徴を活かした独特の表現方法を生み出しました。古事記序文に記された彼の仕事ぶりと、その成果である古事記本文から、太安万侶の功績を探っていきましょう。

 

太安万侶の出自と経歴

古事記の編纂者太 安万侶は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族です。誕生年は明らかになっていませんが、享年は60才程度と推定されています。

太安万侶は、その功績により順調に昇進を重ねました。和銅8年(715年)には従四位下に昇り、最終的には民部卿従四位下という高位に至りました。後に明治44年(1911年)になって、その功績を称えられ従三位に追贈されています。

太安万侶は、元明天皇の命により、稗田阿礼が暗誦していた内容を文字として記録する重要な任務を任されました。この事業において彼が成し遂げた功績は極めて大きなものでした。漢字を用いながらも日本語の特徴を活かした独特の表現方法を確立し、神々の物語や和歌、会話文などを、当時の日本語の語感を損なうことなく文字で表現することに成功したのです。

古事記の序文では、太安万侶が編纂に際して払った苦心が記されています。当時、正式な文章は漢文で書くのが一般的でしたが、日本の神話や伝承を記録するためには、日本語の持つ独特の表現や語感を活かす必要がありました。太安万侶は、この困難な課題に対して創造的な解決策を見出したのです。

神々の物語を記す際には、その神聖さと荘厳さを損なわないよう細心の注意を払いました。また、古くから伝わる和歌言葉遊び、神々や人々の会話なども、その場面の臨場感や情感を伝えられるよう工夫を凝らしています。時に漢字を音として使い、時に訓として使い分けることで、日本語の豊かな表現を可能にしました。

養老7年7月6日(723年8月11日)、太安万侶は生涯を閉じました。彼の墓は現在の奈良県奈良市此瀬町に位置し、「太安万侶墓」として大切に保存されています。

太安万侶の最大の功績は、日本の神話と歴史を体系的な文章として後世に伝えたことです。彼が確立した表現方法は、後の日本語による文章表現の重要な先駆けとなりました。現代の私たちが古事記を通じて古代の物語に触れることができるのは、太安万侶の優れた編纂の力があったからこそです。彼は、単なる記録者としてではなく、日本の文化と伝統を守り伝えた重要な功労者として、歴史に名を残しているのです。

 

古事記編纂における太安万侶の役割

古事記の編纂において、太安万侶は単なる筆記者ではありませんでした。彼は稗田阿礼が暗誦していた内容を文字にする過程で、重要な創造的役割を果たしたのです。その役割は大きく分けて三つありました。

まず第一に、独特の文体の創造です。当時の正式な文章は漢文で書くのが一般的でした。しかし太安万侶は、日本語の語り口を活かしながら漢字を用いるという、画期的な方法を選びました。例えば、神々の会話や和歌は、できるだけ当時の日本語の発音に近い形で表現されています。これは、日本書紀が正格な漢文体で書かれているのと大きく異なる点です。

第二に、物語としての再構成です。太安万侶は、稗田阿礼が暗誦していた帝紀(てんぎ:歴代天皇の記録)と旧辞(くじ:古い言い伝え)を、一つの流れのある物語として見事にまとめ上げました。神代(かみよ)の物語から始まり、天皇家の歴史へとつながる壮大な構成は、太安万侶の編集力なしには実現できなかったでしょう。

第三に、伝統の保存新しい表現の調和です。太安万侶は、古い言い伝えの本質を損なわないよう細心の注意を払いながら、当時の人々にも理解できる形で内容を表現しました。例えば、神々の物語では、伝統的な言い回しを残しながらも、理解しやすい説明を加えるなど、絶妙なバランスを取っています。

特に注目すべきは、序文(じょぶん)の執筆です。太安万侶は古事記の序文で、編纂の経緯や目的、さらには使用した文体についての説明を詳しく記しています。これは単なる前書きではなく、古事記という書物の性格を明確に示す重要な文章となっています。

また、文字表記の工夫も特筆に値します。太安万侶は、日本語の音を表すために漢字を使う際、独自の使い方を確立しました。例えば、神名や地名を表記する際には、その意味と音の両方を考慮した漢字選びを行っています。これは後の万葉仮名の発展にも影響を与えた革新的な試みでした。

さらに、太安万侶は神話の表現にも工夫を凝らしています。神々の物語を描く際、荘厳さを保ちながらも、人々の心に響く生き生きとした描写を心がけました。例えば、イザナギイザナミの国生みの場面や、天照大神スサノオの誓約(うけい)の場面など、神話の重要な場面では特に丁寧な描写が見られます。

このように、太安万侶は古事記を単なる記録としてではなく、日本の伝統と文化を後世に伝える重要な書物として完成させました。彼の創造的な仕事があったからこそ、古事記は1300年以上の時を超えて、今なお私たちの心に深く響く書物となっているのです。

 

太安万侶の晩年と歴史的評価

古事記の完成後、太安万侶は引き続き朝廷に仕え、和銅8年(715年)には従四位下に昇進し、最終的には民部卿従四位下という高位に至りました。養老7年7月6日(723年8月11日)、太安万侶はその生涯を閉じました。

太安万侶の墓所は、現在の奈良県奈良市此瀬町に位置し、「太安万侶墓」として知られています。太安万侶の功績は後世になって再評価され、明治44年(1911年)には従三位に追贈されています。これは、日本最古の歴史書である古事記の編纂者としての功績が高く評価された結果といえるでしょう。

歴史家たちの太安万侶評価は、時代とともに深まってきました。特に以下の三つの点で、その功績は高く評価されています:

  1. 日本語表記への貢献
  • 漢字を使って日本語を表記する独自の方法を確立
  • 後の万葉仮名発展の基礎を築く
  • 日本語の音と意味を両立させた表記法の考案
  1. 編集者としての才能
  • 帝紀旧辞を一つの物語として再構成
  • 神話と歴史を滑らかにつなぐ構成力
  • 読み手を意識した分かりやすい記述
  1. 文化的な功績
  • 日本の伝統を損なわない形での文字化に成功
  • 口承文化を文字文化として保存
  • 後世の文学への影響

現代の研究では、太安万侶の業績は単なる編纂者としてだけでなく、日本の文化史上、極めて重要な役割を果たした人物として評価されています。特に、日本語と漢字の関係について、独自の解決策を見出した先駆者としての評価が高まっています。

また、近年では太安万侶の編集技術にも注目が集まっています。複数の伝承を矛盾なく一つの物語にまとめ上げた手腕は、現代の編集者から見ても非常に優れたものだったと評価されています。

このように、古事記の編纂者としての太安万侶の功績は、時代を超えて高く評価され続けています。彼が確立した文章手法や編集の考え方は、1300年以上を経た今でも、私たちに多くの示唆を与えてくれているのです。

 

帝紀・旧辞を暗誦した稗田阿礼の驚異的な記憶力

古事記の成立に不可欠だった人物、それが稗田阿礼(ひえだのあれ)です。阿礼は、天武天皇から命じられた帝紀(ていき:歴代天皇の記録)と旧辞(くじ:古い言い伝え)の全てを暗誦することができた驚異的な才能の持ち主でした。男女の性別すら定かではない謎めいた人物でありながら、膨大な量の物語や歴史を一字一句違えることなく記憶し、それを後世に伝えることに成功した阿礼の存在なくして、今日の古事記は存在しなかったかもしれません。なぜ阿礼はこれほどまでの記憶力を持ち得たのか、その素顔に迫っていきましょう。

 

稗田阿礼の素顔:出自と能力

古事記の成立に大きく貢献した稗田阿礼(ひえだのあれ)は、歴史上最も謎めいた人物の一人です。その素顔については、古事記の序文に記された限られた情報からしか知ることができません。

阿礼の出自について、まず注目すべきは稗田という氏姓です。これは当時の読書家や学者の家系として知られていました。しかし、阿礼自身については、その性別すら明確ではありません。序文では「是人」(これのひと)という表現が使われており、これが男性を指すのか女性を指すのか、長年にわたって研究者たちの間で議論が続いています。

特筆すべきは阿礼の記憶力です。天武天皇は数多くの臣下の中から特に阿礼を選び、帝紀(ていき)と旧辞(くじ)の暗誦を命じました。この選択には、阿礼の並外れた記憶力が理由として挙げられています。当時の記録によれば、阿礼は「一度耳にしたことは必ず記憶し、一度目にしたことは決して忘れない」という驚異的な能力を持っていたとされています。

また、阿礼は単に暗記能力が優れていただけではありませんでした。帝紀という歴代天皇の記録と、旧辞という古くからの言い伝えを正確に理解し、その意味を把握する深い洞察力も持ち合わせていました。これは、単なる機械的な暗記ではなく、内容を正確に理解した上での記憶だったことを示しています。

阿礼の年齢についても興味深い推測がなされています。天武天皇が阿礼を選んだ時期から考えると、おそらく20代後半から30代前半であったと考えられています。若くして重要な任務を任されたことは、阿礼の能力の高さを示す証の一つといえるでしょう。

さらに注目すべきは、阿礼が宮廷の内部で活動していた点です。これは当時としては極めて重要な意味を持ちます。なぜなら、宮廷内で活動できる人物は、高い教養と信頼性を備えていなければならなかったからです。阿礼はそれだけの資質を持ち合わせていたということになります。

このように、限られた記録からでも、稗田阿礼が並外れた才能と信頼性を兼ね備えた特別な人物だったことが分かります。その謎めいた素顔は、古事記という歴史的大事業に相応しい、神秘的な魅力を帯びているのです。

 

帝紀と旧辞の暗誦:その驚異的な記憶力

稗田阿礼の最も驚くべき能力は、膨大な量の帝紀(ていき)と旧辞(くじ)を完璧に暗誦できたことでした。では、実際にどれほどの量の内容を記憶していたのでしょうか。

帝紀とは、歴代天皇の系譜や事績を記録した書物です。神代から天武天皇の時代まで、天皇家の歴史が詳細に記されていました。一方、旧辞は古くから伝わる神話や伝承、重要な出来事などを集めた記録です。これらには神々の物語から歴史的な事件まで、様々な内容が含まれていました。

両方を合わせると、完成した古事記の分量からの推測では、現代の書籍に換算して優に数百ページに及ぶ内容だったと考えられています。しかも、これらは単なる事実の羅列ではありません。神々の系譜和歌会話地名の由来など、多岐にわたる内容を含んでいました。

特に注目すべきは、阿礼の記憶が単なる暗記ではなかった点です。古事記の序文によれば、阿礼は「誦習(しょうじゅう)」という方法で内容を習得したとされています。これは、声に出して読み意味を理解しながら、繰り返し練習する高度な学習方法でした。

さらに驚くべきは記憶の正確さです。阿礼は一度記憶した内容を決して間違えることがなかったと伝えられています。これは当時の口承文化において、極めて重要な能力でした。なぜなら、わずかな言葉の違いが、意味を大きく変えてしまう可能性があったからです。

阿礼の記憶力を支えた要因として、以下の点が考えられています:

  1. 優れた聴覚記憶
  • 一度聞いた内容を正確に記憶する能力
  • 音の細かな違いを識別する力
  • 韻律やリズムを把握する感覚
  1. 深い理解力
  • 内容の意味を正確に理解
  • 物語の構造を把握
  • 前後の文脈を関連付ける能力
  1. 特別な記憶術
  • 当時の学者が用いた独特の記憶方法
  • 音声と意味を結びつける技術
  • 体系的な暗記方法

このような阿礼の驚異的な記憶力があったからこそ、日本の神話や歴史は正確な形で後世に伝えられることになりました。特に、神々の物語古い言い伝えは、細かなニュアンスまで失われることなく、古事記の中に保存されたのです。

現代の研究では、阿礼の記憶力は単なる才能だけではなく、当時の口承文化の到達点を示すものだったとも考えられています。文字による記録が限られていた時代に、重要な伝承を守り伝える役割を担った人々の中で、阿礼は最も優れた能力を持つ存在だったのです。

 

古事記成立における稗田阿礼の貢献

古事記の成立において、稗田阿礼の果たした役割は計り知れません。阿礼がいなければ、私たちは今日のような形で古事記を手にすることはできなかったでしょう。その貢献は、大きく三つの側面から見ることができます。

第一の貢献は、口承文化文字文化をつなぐ架け橋となったことです。天武天皇の時代、日本の神話や歴史の多くは口頭で伝えられていました。これらは時間の経過とともに、少しずつ変化したり、地域によって異なる内容になったりする危険性がありました。阿礼は帝紀(ていき)と旧辞(くじ)を完璧に暗記することで、これらの貴重な伝承を確実に後世に残す役割を果たしたのです。

第二の貢献は、伝承の正確な保存です。阿礼の記憶力は単なる暗記ではなく、内容の意味や文脈を深く理解した上での記憶でした。例えば、神々の系譜物語の細部、さらには和歌言葉遊びに至るまで、一字一句違えることなく記憶していました。これにより、古い伝承が持つ微妙なニュアンスまでもが、古事記の中に正確に保存されることになったのです。

第三の貢献は、文化的な継承者としての役割です。阿礼は単に内容を記憶しただけでなく、その意味や価値を十分に理解していました。これは後に太安万侶が古事記を編纂する際、極めて重要な意味を持ちました。阿礼が伝えた内容には、古代日本人の世界観や価値観が鮮やかに映し出されていたのです。

特に重要なのは、阿礼が神話の世界歴史の世界を切れ目なく伝えた点です。例えば:

  1. 神代(かみよ)の物語
  • 天地開闢(てんちかいびゃく)から始まる創世神話
  • 神々の系譜と重要な物語
  • 神々の事績と日本の国土の形成
  1. 天皇家の歴史
  • 初代神武天皇から続く系譜
  • 各天皇の重要な事績
  • 歴史的な出来事の記録

これらの内容を、阿礼は一貫した物語として記憶し、伝えることに成功しました。この功績により、日本の神話と歴史は途切れることなく、一つの大きな物語として今日まで伝わることになったのです。

また、阿礼の貢献は言語文化の面でも重要でした。当時の日本語には、まだ確立された文字体系がありませんでした。阿礼が正確に記憶していた言葉の音や表現は、後に太安万侶が古事記を漢字で表記する際の重要な基準となりました。

このように、稗田阿礼の貢献は、単なる暗記者としてのものではありませんでした。阿礼は日本の神話と歴史を、その本質を損なうことなく後世に伝える、極めて重要な役割を果たしたのです。そして、その功績は古事記という不朽の名作の中に、今も確かに生き続けているのです。

 

天武天皇と元明天皇が目指した古事記の意義

古事記の編纂は、天武天皇の強い意志によって始まり、その崩御による中断を経て、元明天皇の時代に完成を迎えました。なぜ二人の天皇は、日本の神話と歴史を記録することにこれほどの情熱を注いだのでしょうか。そこには、日本の伝統を正しく後世に伝えようとする強い使命感と、新しい時代に向けた明確な展望がありました。当時の政治的な背景と、両天皇が描いた理想の国家像から、古事記編纂の真の意義を探っていきましょう。

 

天武天皇による編纂事業の開始

古事記の編纂は、天武天皇の強い意志によって始まりました。天武4年(675年)、天皇は稗田阿礼に対して、帝紀(ていき)と旧辞(くじ)の暗誦を命じます。この決断の背景には、当時の日本が直面していた重要な課題がありました。

天武天皇が古事記の編纂を決意した理由は、主に三つありました。

第一の理由は、伝承の保存です。当時、日本の神話や歴史の多くは口承で伝えられており、時間の経過とともに変化したり、失われたりする危険性がありました。特に神々の物語天皇家の系譜は、国の成り立ちを理解する上で極めて重要でした。天武天皇は、これらを正確な形で後世に残す必要性を強く感じていたのです。

第二の理由は、政治的な統一です。天武天皇は壬申の乱を経て即位した天皇でした。新しい時代を築くためには、日本の伝統や歴史を明確に示し、天皇家の正統性を確立する必要がありました。古事記の編纂は、その重要な手段の一つだったのです。

第三の理由は、文化的なアイデンティティの確立です。7世紀後半、日本は急速に律令国家としての体制を整えつつありました。その中で、日本独自の伝統や文化を体系化する必要性が高まっていたのです。

天武天皇は編纂事業を極めて慎重に進めました。まず、驚異的な記憶力を持つ稗田阿礼を選び出し、帝紀旧辞の暗誦を命じます。これは、正確な内容を保存するための重要な第一歩でした。

特筆すべきは、天武天皇が示した編纂方針です:

  1. 正確な伝承の重視
  • 内容の改変を最小限に抑える
  • 複数の伝承を慎重に検討
  • 信頼できる古い記録の活用
  1. 日本の伝統の尊重
  • 神々の物語の丁寧な取り扱い
  • 伝統的な言い回しの保存
  • 日本独自の表現方法の追求
  1. 歴史的な連続性の重視
  • 神代から天皇の時代までの一貫した描写
  • 重要な出来事の正確な記録
  • 系譜関係の明確な整理

しかし、天武天皇の突然の崩御により、この壮大な事業は一時中断することになります。天武14年(686年)、天皇は病に倒れ、古事記の完成を見ることなく世を去りました。

ただし、天武天皇が築いた編纂の基礎は、しっかりと引き継がれていきました。稗田阿礼が暗記していた内容は失われることなく保存され、後の元明天皇の時代に、太安万侶によって文字として記録されることになったのです。

このように、天武天皇による古事記編纂の開始は、日本の歴史上、極めて重要な意味を持つ出来事でした。それは単なる歴史書の編纂ではなく、日本の伝統と文化を守り、新しい時代を築くための壮大なプロジェクトだったのです。

 

中断から再開まで:元明天皇の決断

天武天皇の崩御により中断された古事記の編纂事業は、約25年もの間、再開されることはありませんでした。しかし、この間も稗田阿礼帝紀(ていき)と旧辞(くじ)の内容を忠実に記憶し続けていました。そして和銅5年(712年)、元明天皇の決断により、この歴史的な事業は劇的な進展を見せることになります。

元明天皇による編纂再開には、いくつかの重要な背景がありました:

  1. 文化的な必要性
  • 日本の伝統文化を体系化する必要性
  • 律令国家としての文化的基盤の確立
  • 口承文化を文字文化として保存する urgency
  1. 政治的な要請
  • 天皇家の正統性の明確化
  • 新しい都(平城京)への遷都に伴う文化事業
  • 大陸との外交における自国文化の確立
  1. 天武天皇の遺志
  • 中断された歴史的事業の完遂
  • 日本の伝統を守り伝える使命
  • 次世代への文化的遺産の継承

元明天皇は、この重要な事業を再開するにあたり、太安万侶を編纂者として抜擢します。太安万侶は当時、朝廷きっての文章博士として知られ、漢文の知識と日本の伝統への深い理解を併せ持つ人物でした。

編纂の再開にあたって、元明天皇は以下のような方針を示しました:

  • 日本の伝統を重視した記述
  • 分かりやすい文体の採用
  • 神々の物語から天皇家の歴史までの一貫した構成

特筆すべきは、元明天皇が示した編纂上の配慮です。天武天皇時代に稗田阿礼が暗記した内容を最大限に活かしながら、新しい時代に相応しい形で記録することを求めました。これは、伝統の保存新しい表現の両立を目指した画期的な試みでした。

その結果、わずか4ヶ月という短期間で古事記は完成します。これは、25年の中断期間があったにもかかわらず、稗田阿礼の記憶が完璧に保たれていたことと、太安万侶の卓越した編纂能力があったからこそ可能になったことでした。

元明天皇の時代に完成した古事記は、以下のような特徴を持つ書物となりました:

  • 神話と歴史の調和のとれた記述
  • 日本語の特徴を活かした文体
  • 和歌会話を含む生き生きとした描写
  • 体系的な歴史書としての構成

このように、元明天皇の決断により、古事記は見事に完成を迎えることができました。それは単なる中断事業の再開ではなく、日本の歴史と文化を後世に伝える重要な転換点となったのです。そして、この決断があったからこそ、私たちは今日、古代日本の豊かな神話と歴史を知ることができるのです。

 

古事記編纂の歴史的意義

古事記の編纂は、日本の歴史上、極めて重要な意味を持つ出来事でした。その歴史的意義は、大きく分けて四つの側面から考えることができます。

第一に、日本神話の体系化という意義です。それまで各地で口承されていた神々の物語は、古事記の編纂によって一つの体系的な神話として確立されました。天地開闢(てんちかいびゃく)から始まり、天照大神須佐之男命の物語、大国主命による国造り、そして天孫降臨に至るまで、日本の神話は見事な物語として整理されたのです。

第二に、天皇家の歴史を明確に記録したという意義があります。神々の時代から実在の天皇の時代まで、途切れることのない一貫した歴史として描かれました。神代(かみよ)から天皇家への連続性は、天照大神からの系譜、天孫降臨の物語、そして神武天皇の東征へと続く壮大な歴史絵巻として記されています。さらに歴代天皇の事績も、重要な政治的出来事や文化的な功績、皇統の継承とともに、明確な形で後世に伝えられることになりました。

第三の意義は、日本語による表現の確立です。太安万侶は漢字を用いながらも、日本語の特徴を活かした独特の表記法を生み出しました。この革新的な試みは、後の万葉仮名の発展や和文体の確立、さらには日本語文学の基礎となっていきます。

第四に、文化的アイデンティティの確立という意義があります。7世紀から8世紀にかけて、日本は急速に律令国家としての体制を整えつつありました。その中で古事記は、日本独自の神話体系と固有の歴史観、そして独特の文化的価値観を示す重要な書物となったのです。

特に注目すべきは、古事記が示した日本的な世界観です。自然との調和を重視する考え方、和解と融合を尊ぶ価値観、そして神々と人間の密接な関係性は、その後の日本文化の発展に大きな影響を与えることになります。

また、古事記の編纂は、口承文化から文字文化への重要な転換点となりました。稗田阿礼の驚異的な記憶力と太安万侶の編纂能力が結びつくことで、古代日本の貴重な文化遺産が文字として保存されることになったのです。

この歴史的な編纂事業は、天武天皇の構想から元明天皇の時代の完成まで、約40年の歳月を要しました。しかし、この時間をかけた取り組みがあったからこそ、古事記は日本の伝統と文化を伝える最も重要な古典の一つとなり得たのです。

現代においても、古事記の歴史的意義は色あせていません。日本文化の源流を知る手がかりとして、また古代日本人の世界観を理解する窓口として、そして日本の伝統的価値観を伝える媒体として、ますますその重要性が認識されています。

このように、古事記の編纂は単なる歴史書の作成ではありませんでした。それは日本の神話と歴史を体系化し、文化的アイデンティティを確立する、極めて重要な事業だったのです。そして、その意義は1300年以上を経た今日でも、私たちの文化や思考に大きな影響を与え続けているのです。

 

まとめ:古事記編纂者たちが残した歴史的功績

古事記の編纂は、天武天皇の構想から始まり、元明天皇の時代に完成を迎えた歴史的な大事業でした。この偉業の中心となったのが、驚異的な記憶力を持つ稗田阿礼と、優れた編纂能力を発揮した太安万侶です。

阿礼は帝紀(ていき)と旧辞(くじ)の内容を完璧に暗記し、25年もの長きにわたってそれを保持し続けました。一方、太安万侶は漢字を用いながらも日本語の特徴を活かした独自の表現方法を確立し、神話と歴史を見事な形で文字に記録することに成功しました。

二人の働きにより、それまで口承で伝えられてきた日本の神話と歴史は、体系的な書物として後世に残されることになりました。天地開闢から始まる神々の物語、天照大神から連なる天皇家の系譜、そして実在の天皇たちの事績まで、一貫した歴史として描かれています。

古事記の編纂は、日本の伝統文化を守り伝えようとした先人たちの情熱と努力の結晶でした。そして、その功績は1300年以上を経た今も、私たちの心に深く響く形で受け継がれているのです。

 

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